この写真は1982年(昭和57年)に寝台特急『はやぶさ」で、東京からぶらっと旅をした時に、到着した西鹿児島駅に隣接した『鹿児島保線支区』のヤードで撮影した一コマです。
見るからにもう数年間運用していない様が伺えます。塗装の退色はそれほどではありませんが、至る所に錆が出て、運用するにはかなりのメンテナンスが必要といった風情です。
西鹿児島に来る途中にも、博多駅を出てすぐのヤードに20系寝台客車の食堂車『ナシ20』が3輛連結された状態で放置してあり、こちらは履き古したブルージーンズのように全体が遣れていて、いかにも余剰廃車という体裁で、ほかにも廃車になった気動車などもあり、ヤード全体が車輌の墓場といった光景で、Nゲージのレイアウトに再現してみたくなるモチーフでした。
20系特急寝台客車は、スイス連邦鉄道の設計技術を元に短時間で開発された実用一点張りの10系寝台客車を、より豪華な日本国有鉄道のフラッグシップ車輌になるよう、『走るホテル』のコンセプトのもと開発され、1958年(昭和33年)10月に東京 - 博多間の寝台特急「あさかぜ」として走り始めました。当初『あさかぜ形』や『九州特急』とも呼ばれ、その後全国に運用を広げてからは『ブルートレイン』の愛称を授った国鉄屈指の名車でした。
『20系寝台特急客車』の書籍のお取り寄せは【楽天市場】
『20系寝台客車』や『ブルートレイン』の書籍お取り寄せは【Amazon】
電源車から一括して電気を供給し客室の静粛性を上げ、全車エアコンを装備し快適性を向上し、食堂車を完全電化し安全性を計り、冷蔵庫や電気レンジも設置され、また空気バネ台車で居住性を飛躍的に向上したのですが、その豪華な固定編成の形態が仇となり、1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」を最後に花形寝台特急としての14年間の運用を終えました。鮮烈な記憶を残した割りには、意外と短命な車輌だったようです。
当時めきめきとシェアを伸ばしていた航空機に太刀打ちするには、効率化が必要となり、しかもこの豪華な固定編成で優雅に且つ効率的に運行できる範囲は、当時は東京・大阪間くらいなもので、現実的には編成の『分割併合』が必要となり、路線の需要に応じて編成を短くしたり、行き先を分散させることが出来ないと、非合理的だったということで、1963年(昭和38年)頃には『スハ32形』を改造した簡易電源車『マヤ20形』を連結させ、当初の編成の美学は無視して、半ば強引に『分割併合』して切放して短編成で運用していたようですが、その後1972年から『電源分散方式』の次期寝台特急車輌の14系にその役目を引き継がれてしまいました。
しかしその年の11月6日、北陸トンネル火災事故が発生。まだ活躍していた電源分散方式の10系寝台急行列車の食堂車から出火し、火災対策の不備もあって大惨事となり、14系の生産が中止。安全対策を施し、再度『集中電源方式』を採用して24系・24系25形が主流となりました。
特急列車引退後は、急行寝台列車として第二の人生を歩むことになり全国で活躍し、「だいせん」・「ちくま」を最後に1986年(昭和61年)11月に急行列車での定期運用も終了し、一部の車輌は臨時列車や一時期運行したカートレインに使われていましたが、1997年(平成9年)11月29日の新大阪発・岡山行き快速『さよなら20系客車』が運転されたのを最後に、1998年(平成10年)までに全廃になったとのことです。
右の写真は1985年(昭和60年)に湯布院に旅行にいった際に、日豊本線別府駅のヤードに留置してあった20系ですが、これも完全に使用している形跡はなく、かなり錆びて解体待ちのように見えました。
『走るホテル』と呼ばれ、旅行者のあこがれだった20系寝台特急客車は、長く活躍した印象がありますが、その半生は地味な急行列車としての運用でした。
自分にとっては、1980年代に東京から横浜に通勤していて、当時は残業が多く毎日が終電での帰宅となっていたので、第一線の寝台特急が全て旅路についたあと、EF65-1000番台に牽引されて、のんびりと横浜駅の東海道本線下りホームに入線してくる大阪行き寝台急行『銀河』の印象が、一番強く残っていて、思い出深い車輌でした。
新幹線網が整備され、寝台特急のブルートレインが次々に廃止になってゆく昨今ですが、寂しと同時に、移動が短時間になる便利さとが相まって複雑な気持ちです。
ただその時代を、見て体験できたことが、とても幸せだと思う今日この頃です。