DSC09543ss.jpg今や空前の鉄道ブームで、多くの書籍、グッズ、DVDなどが販売されていて、色々な楽しみ方が出来ますが、その反面、何を購入したら良いか迷ってしまうのも事実。
特にDVDはどれも似たような物が多く、その大多数が、近年の映像ばかりのようです。

昭和の国鉄時代のファンにとっては、例えばステンレスやアルミ製の気動車が山深い単線区間を疾走している光景には少しだけ違和感があるというもの...。そんな中、最近発売された『映像で綴る 懐かしの国鉄時代 昭和の鉄道』(DVD全12枚+特別鑑賞冊子付き)は、なかなかの内容のようです。

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先日、我が妻がその販売元の『ユーキャン』が運営する『ココチモ』の展示を見に行って来たのですが、かなり豪華なDVDのようで、国鉄よりも古い『鉄道省』時代の車輌の走行シーンや駅の光景など、多数の貴重な動画が、年代別に収録されていて鉄道コレクションには絶対欠かせない充実の内容です。
しかも『特別鑑賞冊子』がついていて、鮮明な写真や、蒸気機関車の図面などは夢のような完全保存版のアイテムです。

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最近では名古屋市にある『リニア・鉄道館』や、さいたま市の『鉄道博物館』での昭和の車輌の展示や、BSフジの番組『鉄道伝説』などが、ドキュメントタッチで昭和の鉄道を取り上げていたりして、若いファンなどにも、国鉄時代の鉄道が人気になって来ているので、こんな豪華なセットが実現したのだと思いますが、昭和の鉄道ファンには実にたまらないグッズです。

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w03-20kei01ss.jpgこの写真は1982年(昭和57年)に寝台特急『はやぶさ」で、東京からぶらっと旅をした時に、到着した西鹿児島駅に隣接した『鹿児島保線支区』のヤードで撮影した一コマです。
見るからにもう数年間運用していない様が伺えます。塗装の退色はそれほどではありませんが、至る所に錆が出て、運用するにはかなりのメンテナンスが必要といった風情です。
西鹿児島に来る途中にも、博多駅を出てすぐのヤードに20系寝台客車の食堂車『ナシ20』が3輛連結された状態で放置してあり、こちらは履き古したブルージーンズのように全体が遣れていて、いかにも余剰廃車という体裁で、ほかにも廃車になった気動車などもあり、ヤード全体が車輌の墓場といった光景で、Nゲージのレイアウトに再現してみたくなるモチーフでした。

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20系特急寝台客車は、スイス連邦鉄道の設計技術を元に短時間で開発された実用一点張りの10系寝台客車を、より豪華な日本国有鉄道のフラッグシップ車輌になるよう、『走るホテル』のコンセプトのもと開発され、1958年(昭和33年)10月に東京 - 博多間の寝台特急「あさかぜ」として走り始めました。当初『あさかぜ形』や『九州特急』とも呼ばれ、その後全国に運用を広げてからは『ブルートレイン』の愛称を授った国鉄屈指の名車でした。

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電源車から一括して電気を供給し客室の静粛性を上げ、全車エアコンを装備し快適性を向上し、食堂車を完全電化し安全性を計り、冷蔵庫や電気レンジも設置され、また空気バネ台車で居住性を飛躍的に向上したのですが、その豪華な固定編成の形態が仇となり、1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」を最後に花形寝台特急としての14年間の運用を終えました。鮮烈な記憶を残した割りには、意外と短命な車輌だったようです。

当時めきめきとシェアを伸ばしていた航空機に太刀打ちするには、効率化が必要となり、しかもこの豪華な固定編成で優雅に且つ効率的に運行できる範囲は、当時は東京・大阪間くらいなもので、現実的には編成の『分割併合』が必要となり、路線の需要に応じて編成を短くしたり、行き先を分散させることが出来ないと、非合理的だったということで、1963年(昭和38年)頃には『スハ32形』を改造した簡易電源車『マヤ20形』を連結させ、当初の編成の美学は無視して、半ば強引に『分割併合』して切放して短編成で運用していたようですが、その後1972年から『電源分散方式』の次期寝台特急車輌の14系にその役目を引き継がれてしまいました。
W03-hayabusa01.jpgしかしその年の11月6日、北陸トンネル火災事故が発生。まだ活躍していた電源分散方式の10系寝台急行列車の食堂車から出火し、火災対策の不備もあって大惨事となり、14系の生産が中止。安全対策を施し、再度『集中電源方式』を採用して24系・24系25形が主流となりました。

特急列車引退後は、急行寝台列車として第二の人生を歩むことになり全国で活躍し、「だいせん」・「ちくま」を最後に1986年(昭和61年)11月に急行列車での定期運用も終了し、一部の車輌は臨時列車や一時期運行したカートレインに使われていましたが、1997年(平成9年)11月29日の新大阪発・岡山行き快速『さよなら20系客車』が運転されたのを最後に、1998年(平成10年)までに全廃になったとのことです。

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右の写真は1985年(昭和60年)に湯布院に旅行にいった際に、日豊本線別府駅のヤードに留置してあった20系ですが、これも完全に使用している形跡はなく、かなり錆びて解体待ちのように見えました。

『走るホテル』と呼ばれ、旅行者のあこがれだった20系寝台特急客車は、長く活躍した印象がありますが、その半生は地味な急行列車としての運用でした。
自分にとっては、1980年代に東京から横浜に通勤していて、当時は残業が多く毎日が終電での帰宅となっていたので、第一線の寝台特急が全て旅路についたあと、EF65-1000番台に牽引されて、のんびりと横浜駅の東海道本線下りホームに入線してくる大阪行き寝台急行『銀河』の印象が、一番強く残っていて、思い出深い車輌でした。

新幹線網が整備され、寝台特急のブルートレインが次々に廃止になってゆく昨今ですが、寂しと同時に、移動が短時間になる便利さとが相まって複雑な気持ちです。
ただその時代を、見て体験できたことが、とても幸せだと思う今日この頃です。

w02-ekiuri-doko.jpgこの写真は昭和45年12月26日に撮影した昭和の極々ありふれた光景です。
DF50ディーゼル機関車に牽引されたスハ43やオハ35の混合編成がホームに到着してその短い停車時間に、駅弁の立売りが「弁当〜弁当〜」と、ご当地自慢の駅弁を売り歩いている一コマです。

昭和の中頃までは、ごく当り前だった駅弁の立売りですが、最後まで頑張っていて、ついに2011年に引退したJR鹿児島本線『折尾駅』の5番ホームの山口さんを最後に、その姿を見る事はなくなりました。

長距離列車の窓が開閉出来なくなったことに加え、車内販売やホームの売店の充実もあり、効率の良さを要求される時代には相応しくなかったのでしょう...。昔が良き時代なのか、今が良い時代なのかは微妙なところです......。しかしまだ一部の駅では前もって予約をしておけばホームまで届けに来てくれる、ちょっと高価なお弁当は存在するようですが、昔の風情とは少々違ってグルメな世界のようです。

で、本題は懐かしい〜!では無く、実は「ここは一体どこの駅?」という事なのです。
43年前のこの日は中学の同級生と蒸気機関車の写真を撮る旅行の真っ最中で、前日に関西本線のD51やC11などを撮り、紀勢本線の紀伊田辺駅に近い旅館に宿泊、早朝に紀伊田辺駅の機関区で9600やC58を撮ってから『御坊臨港鉄道』や『有田鉄道』のディーゼルカーなどを撮影して、倉敷に向かう途中という事だけは、ネガの順番で判ってはいるのですが、ここが何駅かがさっぱり判りません。

日差しの感じから推測すると、この季節でこの影の長さはほぼ正午だと思うのですが...。だとすると、この日たどったルートとタイムスケジュールから、まだ紀勢本線の何処かで、しかもこのスハ43の乗降口の上に『南海』との表示があるので紀勢本線のエリアであることは間違いないし...。

ところで、この『南海』の表示は何?行き先の駅名?それとも列車名??...インターネットで調べてみると、海南駅はあっても南海駅はないし、この時代はもう横書きは左から読むし...、『南海号』なる列車もないし......、かつて国鉄と南海電気鉄道が、天王寺駅や難波駅から白浜駅や新宮駅間を、阪和線や南海本線・紀勢本線経由で乗り入れ運転をしていた急行列車があったという話があるので、その列車かと思ったら、それはたぶん気動車みたいだし...。
結局よくわからないけど、前後の写真に連続性も無く、決定的な物証はありませんでした。ただ自分でシャッターを押したのは間違いないので和歌山県の何処かだと思います。......と、いうことで昭和の立売りは懐かしいなぁというだけのお話になってしまいました。
古い写真の中には時々、ココはどこ?この人誰?的なものがありますがこの写真もその一枚です。

ココチモ