この写真は1971年(昭和46年)に関西本線の亀山機関区で、走行中のD51のすぐ脇で撮影したものです。その昔、国鉄時代には管理事務所で許可さえ取れば、自己責任でかなり踏み込んだ所まで撮影に入れましたので、より車輌の重厚感と迫力が体感できました。
D51は戦前に、より効率の良い機関車として開発され、1,115輌の生産台数は日本の機関車の単一形式としては
現在においても最多記録を誇ります。と、いうことで、ほぼ日本中で見ることが出来たD51は多くの人々に好かれて、デコイチの愛称で呼ばれ、時には左から2番目の写真(倉敷貨物ターミナル)のように、入換え作業の停止中に近所の子どもたちが、機関士さんにひと声掛けてよじ登り、ナンバープレートの魚拓ならぬロコ拓を取ることもしばしば...。今考えると1970年代は、まだまだ恐ろしく自由な時代でした。
左から1番目と3番目は岡山県と鳥取県・島根県を結ぶ伯備線の新見機関区で1971年12月に撮影したものですが、まだまだ蒸気機関車を追いかけて写真を撮る人も少なかったせいか、かなり自由に動き回って撮ることが出来ました。
1番右側の写真は1970年10月の東京駅〜横浜(高島線)のSLラストランのD51-791ですが、これもJR鶴見駅の場内に入れて撮った1枚です。この日は東京・横浜間に数万人のファンが集まり、鶴見駅だけでも数千人の人出でしたが、係員は10人程度で録音機とカメラを持って自由に撮影が出来ました。大変危険といえば危険ですが、目前で大迫力の機関車が雄叫びを上げて走っていれば自然と腰が引けて、意外に観客は冷静でした。
しかし今まで数多くのD51を、高島線(東海道本線の貨物支線)や新鶴見操車場、伯備線、山陰本線、信越線、北陸本線で見てきましたが、どれも個性があって2輌として同じものはなく、実に興味深い車輌でした。D51は戦前・戦中・戦後そして復興と激動の時代に、日本を支えたの国鉄の名車です。